塩田尚の月例訪問10月号
- つくば市議会議員 塩田尚
- 2021年9月22日
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筑波研究学園都市の建設は昭和38年に閣議了解されて正式に決ったものです。実質的に建設が始まってから今日迄半世紀余り、我がつくば市は目ぐるましいスピードで発展を続けて参りました。建設以前は純然たる農村地帯でした。田畑や山林がほとんどを占め、多くの方々が先祖伝来の農地を耕して、質素ではあるけれども、力強くお互いに助け合いながら生活していたのです。そこへ降ってわいた学園都市の開発。当然、地元の強烈な反対運動が沸き起りました。農家で使うむしろに「建設反対!」とか「農民の命を守れ!」と大書して、のぼり旗に仕立てて立ち上がっている地元民の古い写真を、私も見せて頂いた事があります。しかし結果的には国や県、そして当時の町や村を中心とした説得に応じ、泣く泣く多くの土地を手放して協力したのでした。買収額は50年前とは言え、たったの坪千円であったと聞いております。
私が妻の里である旧谷田部町に居を定めた時には研究学園都市は概成、つまり概ね完成したと言われておりました。理想に燃えて谷田部町議会議員に立候補し、2度目の挑戦でようやく当選したのです。町議になってすぐ、谷田部町を舞台に筑波科学万博が開かれました。夢のような未来都市の出現に胸を躍らせて、私は誓いを新たにした事があります。それは学園都市建設に苦渋の決断をした先人達の苦しみや悩みや悲しみを、喜びと誇りに変えなければならない、との決意です。
万博が終わった後は、一気に合併へと突き進んで行きます。これも簡単には行かず、嵐のような反対運動が起りました。当時の大穂町では反対派の町民が町役場に大挙して押しかけ危険な状態となり、機動隊まで導入されたものでした。そうした騒然とした時勢の中で、それぞれの町会議員が合併を議決して、新生つくば市が誕生した訳ですが、当時の事を知る議員も、今や私を含めて3人のみとなっています。これらの激動の歴史が、やがて誰も知る人がいなくなり、先人の思いが繁栄の陰に隠れて忘れられてしまうのではないかと、私は危惧しています。
そこで9月定例議会の一般質問に於て、私はつくば歴史館の建設を提案致しました。つくばはこの半世紀だけの歴史ではありません。筑波山は万葉の時代から文化の象徴であり、実に多くの歌が詠まれています。また南北朝時代には北畠親房が小田城に立て籠り、「神皇正統記」を著した事は、歴史の教科書にも書かれています。またカッパ伝説で有名な牛久沼もつくば市に接しています。
つくばは文化と歴史の宝庫なのです。それを後世に伝承するべく『つくば歴史館』を創り、市民が集い語り合える交流の場としたいですね。
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